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Web朱夏 No.2(2011.01.27)

[新刊余録] 

中国に残った日本人―その1 岸 富美子さん ~「無法松の一生」をめぐる、フシギ!~

編集部

 中国に残って仕事をした映画人、岸富美子さんのインタビューを本にしたけど、どんないきさつがあったの?

田中 東京女子大の下出鉄男教授のところで、岸さんが話をするというので、そこで話を聞いたのが、きっかけだね。それから、試しに、せらび書房の事務所でインタビューして……。そのときは、まだ本にするかどうか、はっきりしなかった。それでも、全体像をつかもうと何回もインタビューを重ね、これは貴重な証言なので、やっぱり、本にするかとなったわけ。岸さんの方で、語りたくないような部分もあり、ちょっと途中で、イヤになっちゃったけど……。岸さんもそれはあったようで、途中でやめようかな、と思ってたそうだ(笑)。

 その結果、『はばたく映画人生―満映・東影・日本映画』というインタビュー集になったわけだけど、これは、どういう特徴があるの?

岸富美子・写真田中 岸さんは、NHKのドキュメンタリー『中国映画をささえた日本人』(2006)で、かなりスポットが当たったから、違うやり方でインタビューしたんだよ。戦前から戦時下の満映のとき、新中国の映画草創期のこと、帰国してからの独立プロのこと。映画人として一貫した生き方を追った。こちらも勉強したけどね。あとは、映画人を中国人と織り混ぜて等分に扱ったことだね。そういう意味では類書のない良いものになったし、作ったあとの後味も良かった。

 時間をかけただけのことは、あったわけね。

田中 これは手前味噌なんだけど、語り手も良いけど、聞き手も良い、という意見は、かなり寄せられた。なんでこの人はあんなに分かるんですかって。岸さんに甘いというのではなくて、厳しい質問を投げかけていたと。たまたま先日、内村剛介のロングインタビューを買ったけど、吉本隆明がインタビュアーを誉めている。インタビュアーがインタビューされる側を深く理解している、と言ってるんだ。気がついてみれば、この仕事が終わってみると、私もまったく、そうだったと自負したね。

 私も昔、研究を志したことがあったんだけど、頭のいい研究者は、対象から遠回りしすぎて、本当に言いたいことが逃げちゃうんだよね。論文にすると分かりにくくなっちゃう。一つの不幸だね。優れた表現者っていうのは、遠回りもするんだけど最短のことばも知っている。感動のツボのようなことね。インタビューだとそれがハッキリ出てくることがある。聞き手の疑問が素朴になるし、される側も本当に言いたかったことがでてきたりする。

田中 話というものと論文とはニュアンスが違う。会話は入り易い、ということかな。それと、J・クリステヴァが言ってるけど、人間の語りは「ポリローグ」、つまり多重的だと言うんだ。モノローグに対しての彼女の造語。独り語りがモノローグだけど、それは赤ちゃんに語りかけるとき、読書をするとき、フィットネス・クラブにいるときなどとは、どれも違う思考や語りを持っている。人間の語り自体が多重的ということで、今回のインタビューでも、多面的な岸さんが出てくるよう心がけた。結果的には、私はこのインタビューの仕事をして、とてもよかったと思っている。

 どういう点で?

田中 映画というのは監督とキャメラマンで成り立っていて、もちろんスタッフはいるのだけど、何の権限も持ってないくらいの偏見を持っていたんだ。監督の指示のもとに動くだけの人間かと……。でも岸さんの話を聞くと、大いに違っていた。

 どこが違っていたの?

田中 監督が撮ったフィルムを観て、この人は一体何が言いたいんだろうと、監督の意志を探りながら編集するんだ。自分は監督に対して何ができるのかを考えている。完全に支配されて流されてたかというとそうではなく、フィルムの良さも悪さも知った上で仕事をしていた。監督は何であんな良い場面を切るんだろうと、またそこで勉強もするわけ。その反対につなげてみると饒舌になりすぎて、いらない場面も見つかるわけだ。岸さんが関わったフィルム編集は映画の出来栄えを決める重要なポジションになる。映画は30人程度のスタッフが一丸となって共同で行う、コラボレーションの世界。どれが欠けてもいけない。監督はどんなポジションの意見も聞いて、そして考える。チームワークによる個別職能生産スタイル。素敵な創造プロジェクト。

 映画界では常識かもしれないけど、世間では案外知らないと思う。けど、それが分かっただけでも今度の話はすばらしいと思う。

田中 話は少し違うけど、良い映画を撮っているのに埋もれてしまっていることもある。内田吐夢が撮った『警察官』という映画、サイレントだから、もう忘れられている映画。大森ギャング事件がモデルなんだけど、左翼は、もう強盗でもしないと運動資金が得られない。そういう時代に銀行ギャングを描く。それに善意の警察官がからむ話。昭和10年くらいに撮られた。興行的にはヒットしなかったけどね。

 内田吐夢は『はばたく映画人生』にも出てくる。岸さんは稲垣浩監督の「無法松の一生」を絶賛しているね。そして、敗戦後、満映が没収され、中国に残留して中国人に映画編集の技術を教えることになったとき、「無法松の一生」を教材にした。内田吐夢とも一緒に指導したんだね。

田中 「無法松の一生」は1943年に創られた。監督は稲垣浩。その時は阪妻が無法松を演じ、戦後、三船敏郎で撮り直している。キャメラマンは宮川一夫。岸さんは日活時代に宮川一夫のカット撮影を見ていた。そして、私とのインタビューの中で、「断片的に撮ったものがカッティングによって聯合して表現出来ることが魔法のような感じで、忘れることができなかった」と言っている。

 岸さんのインタビューに出てくるけど、内田吐夢は「音と画がリズミカルにぴったり合っていることを重視して、編集はリズムとテンポの芸術だ」と言ったとか。

田中 主人公の松五郎こと無法松は、ある軍人の家を出入りする車夫だけど、そこは新婚家庭だった。車夫にもかかわらず、主人がお前は良いヤツだ、と言って酒を飲ませてくれたり、一人の男子としても待遇してくれる。この旦那に忠実に仕えていたが、その旦那が急死する。そのため、余計にこの家庭のために誠心誠意、務めなくてはいけないと思うようになる。それと同時に、その未亡人が本当に好きになるんだ。でも何も言えない。小さな息子の面倒もよくみる。喧嘩に負けてべそをかいていると、「坊ちゃん、そんなことじゃダメですぜ!」と言って喧嘩の仕方を教えたりするんだ。

 山田洋次の寅さんで、池内淳子がヒロインのヤツがあって、ひ弱な息子と二人暮らしの未亡人の設定なんだけど、やっぱり同じような場面がある。喧嘩に負けた息子に喧嘩の仕方を教える。寅さんは池内淳子のことが好きなんだけど、口には出さない。そっくりだね。

田中 最後まで好きって言わないんだけど、奥さんも奥様然として距離をとっていた。ところが、何かの時に「あなたの気持ちは分かってます」って言う良いシーンがあるんだよね。さらっとしていて、ほのかに匂い立つような良い場面。ただ、松五郎が思い切って、奥さんへの思いを語る場面は、戦時下の検閲でカットされて、映画のなかには残っていないけどね。

 寅さんでは、「寅さん、あなたいい人ね、早く出会ってたらわたし……。」とか言って匂わす場面あるけど、そうはっきりは表現できない。

田中 その息子も大きくなってきて、無法松から離れていく。ほんと父と子みたいになっていく。しかし、自分は身分が低いから、どうあっても奥さんとは釣り合わないと思っていた。自分から気持ちを表すなんてとんでもない話だと思っていた。そして、最後は貧乏長屋に住んで、車夫の仕事もなくなってきて、頭髪が真っ白になって、太鼓の騒ぎも終わって、酔っぱらって雪の中で死ぬんだ。「ぼんぼん、ぼんぼん」って言って死ぬんだ。あれは本当は、「奥さん、奥さん」って言ってるんだと思うよ。

 向田邦子の「あ・うん」も似ている。親友の奥さんが好きなんだけど、結局、告白できず、思いが強くなった途端に自分の方から去っていく。きれいな、ストイックな話。「無法松の一生」は構成面で強い影響力があったそうだけど、太鼓を打つシーンが有名ね。あれは、どういう場面だったの?

田中 松五郎は学問もないし、何の能もないんだけど、小倉太鼓を叩けば日本一だった。小倉祭りに人を案内してフラフラと出かけていき、叩く太鼓を見てたら、それは昔の叩き方じゃない、と言って自分が台の上に昇る。そうすると太鼓の通人がいて、「これを叩いているのは誰だ! 今叩けるヤツは誰もいないはずだ!」みたいになって、それが無法松が叩いているシーン。

 モンタージュ理論として評価されているのはどういう点なの? 岸さんが惚れたっていうところは!

田中 昔の映画の撮り方は、例えば侍が切り込むシーンだとすると、遠くから走ってきて、刀を抜いて、切り込んで、そしてまた向こうへ走って行くわけね。それをずっとカメラが追いかけていたわけさ。それを、走っているところ、刀を合わせているところ、刀がパーンと飛ぶところ……という具合に撮ってそれを繋げるのがモンタージュ。そのやり方は、もう浸透してたけど、無法松で思いっきり試してみたというところかな。無法松の太鼓の場面では、太鼓を叩くシーンに、民衆の姿が写り、海が写り、太鼓のリズムと波のリズムが重なる。岸さんが言うには、それはすごい衝撃だった。

 役者にとっては、現場ではどうなってるか分からないけど、出来上がってびっくりってわけね。編集の側から見たら面白い話だよね。岸さんも、それに参ったわけね。

田中 ロシアではエイゼンシュタインがすでにやっていた。例のオデッサの広場で階段から転げるシーン。先日、渋谷で「エイゼンシュタインの会」の研究会があって、そこで岸さんが無法松について話したんだけど、そういうことは知らなかったよ。実は、エイゼンシュタインの理論は弾圧されたために日本に入ってこなかった。一部の映画人が、オデッサの場面はすごいらしいということで、密かに勉強していたんだ。実際には映像を観ることができないから、想像で学んでいった。

 時期は昭和の初め頃? ロシアの情報だから弾圧されたってこと? 共産主義ってこと?

田中 そうだね。いろいろ試みもあったかもしれないけど、国内で、モンタージュを効果的に使ったのは、「無法松の一生」。監督の稲垣さんたちは、自分たちで研究会を作っていた。情報が途絶えているからよく分からない中、勉強したんだよ。その結果できたのが「無法松の一生」だった。

 映像技術の1つのエポックってことだね。技術の革新性、内容の美しさと、役者の良さなどが合致して、傑作となったような気がするけど、後々まで残る名作だね。黒沢の「七人の侍」もリニューアルされたけど、無法松ももっと評価されても良いね。

田中 原作者は岩下俊作で、九州の人だから、この話には理解が深い。座頭市と同じで原作はあるんだけど、映画にしてヒットしたっていうパターンだね。

 岸さんは無法松を映画の原点と思っていて、敗戦後、中国で映画を教えることになった時に、やっぱり無法松を選んだ。内容的に惹かれる点もあったのかね?

田中 これを吉岡夫人という女性に添った視点で考えてみると、女性の観客は、未亡人と、それを好いてくれる男っていうシチュエーションで観ていたと思う。女性にとっては、好ましい男性だけど、バリヤーはある。しかし、言い寄ってはこなくて、お役にたてることだけを考えていた男。好きだなんて、これっぽっちも見せてはいけないと思っていたんだよ、松五郎は。身分差があるけど、自分に惚れてくれて、心底尽くしてくる人がいたら、こんなにすばらしいことはないわけだよ。それがたとえ、車引きでもよかった。

 でも、女性は、どこそこの社長がいいとか、マンション持っている人がいいとか、はじまっちゃうんじゃない?そうじゃなくて、息子を可愛がってくれたり、自分に心底尽くしてくれるところに無償の愛を感じる。そういうところが、寅さんや向田さんの作りにも繋がってると思う、私は!

田中 日本人の「物言わぬ美学」がそこにある。そういう高級な映画なんだよ、「無法松の一生」は。古い美学の世界でもあるけどね。

 岸さんが編集技術を伝授したと言っても、内容が良いから中国でもテキストになったんだと思いたいね、私としては。

田中 大事なことは、映画編集者は第一番めの映画鑑賞者だってこと。映画のフィルムがホットの状態で出てきた時に、はじめて生で見るのは映画編集者。そして、映画編集者こそ第一の映画批評家。ここは要らないとかはできないけど、フィルムの善し悪しはよく分かる。

 どこまで中国の映画人に伝わったんだろう。

田中 日本人の「物言わぬ美学」が中国人に伝わったとしたらすごいことだよ。もし、それを中国人に伝えたとしたら、岸さんはとっても良い仕事をしたんだ。

 敗戦後の混乱期によく日本映画を見つけ出して教材にできたものだと思うよ。あのインタビューの中では、日本映画のフイルムが、かつての満洲赤十字病院のボイラー室に保管してあったと書いてある。たくさんのフィルムのなかから、ぜひ、「無法松の一生」を教材にしたい、というので何日もかかって探し、幸い、全巻があったわけね。だから、教材にできた。そして、この映画を観た中国人技術者はテクニックに驚いたというけど、きっと映画の内容にも感動したのね。岸さんの教え子たちはその後の中国映画界で良い仕事をするわけでしょ。映画作品も混乱の中で滅びることもある。しかし生き残るものもある。歴史や運命の不思議を思い知るね。

田中 映画信仰というか、不思議とフィルムというのは、火災なんかでなくならないかぎり、何処かに残されている。当時の状況で、残すという意識が中国側に働いた結果、「無法松の一生」が残った。でも、今は残っていない。日本にはあるけどね。岩下俊作の原作、「富島松五郎伝」が書かれたのは昭和14年。映画の完成は、昭和18年。よく上映できた。戦時下映画の映画人たちの良心の結晶。だから、岸さんも大いに共感したんだろうね。

『はばたく映画人生』表紙[データ]

『はばたく映画人生―満映・東影・日本映画 《岸 富美子インタビュー》』(当社刊)

刊行時期/2010年3月

価格/本体価格1200円+税

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